
倉敷中央病院副院長
橋本 徹 先生
・日本内科学会総合内科専門医、指導医
・日本呼吸器内視鏡学会気管支鏡
専門医、指導医
・日本呼吸器学会専門医、指導医
・日本感染症学会専門医、指導医
・インフェクションコントロールドクター
・日本臨床検査医学会臨床検査管理医
・日本結核・非結核性抗酸菌症学会
結核・抗酸菌症指導医
出身地:石川県
好きな食べ物:刺身・寿司
趣味:音楽鑑賞・読書

医師を目指したきっかけ
先生が医師を目指したきっかけは何ですか?
橋本副院長:
出身は石川県です。
今回の地震ですごく有名になったのですが・・・
そうですよね・・・
橋本副院長:
田舎ですので、金沢から車で1時間30分ぐらいかかります。
電車は1時間に一本あるかないかぐらいです。
それで、田舎で学校の成績のいい子は
医者になるという風潮があります。
ええ、そうなんですか?
橋本副院長:
そうなんです。
近所のおばさんや親戚のおじさんが皆言ってきました。
「橋本さん家の男の子は成績がいいらしいぞ。
医者になったらいいのではないか」と。
だから医者になることを周りから勧められて育ってきました。
周りの期待が高かったんですね!
橋本副院長:
だから、環境が違っていたら医者にはなってなかったかもしれないですね。
それから、かっこいいことを言うと社会的使命っていうのは
やはり感じています。
困っている人を助けることに対して意義を感じて、医者になりました。
住んでいるところが田舎だったので、
いろいろなことに取り組める機会が少なかったため、
困っている人を助けて社会に貢献したいと感じていました。
お若いころから立派に志を持っていらっしゃたんですね。
橋本副院長:
いやいや。
世の中を斜めに見ているだけかもしれないですけどね。

医師になっていなかったら?
ちなみに先生、医師になっていなかったら何になりたかったですか?
橋本副院長:
医者になっていなかったら・・・理系だったので、
システムエンジニアとか、大学の研究員になっていたと思います。
それもすごくイメージできます!
橋本副院長:
そうですか?
はい。その世界でも先生は活躍されたんだろうなと想像できました。
橋本副院長:
幼稚園児の時は、大体将来の夢は何ですか?
とよく聞かれるじゃないですか。
はい。
橋本副院長:
タクシー運転手。
そうだったんですか?
橋本副院長:
そうなんですよ。
小さいころに僕の住んでるところで職業を見るときは、
車で街を走っているときぐらいでした。
男の子なのでタクシーの運転手かなと思っていました。

子供の頃の橋本副院長
医師になってからのエピソード
それでは、医師になってからの印象的なエピソードはありますか。
橋本副院長:
かっこいいことは全然ないですよ。
うまくいかなかったことはありますが。
例えば、昔は今みたいに教育体制がしっかりできていないので、
現場に送られて勝手に経験値を積まなければなりませんでした。
僕らの時代の研修医は1年目は大学で、
2年目からは外の病院に研修に行って、それから大学院に行きます。
採血当番をすることになって。
学生の頃、何回か練習するのですが、
実際にやることになると手が震えました。
それで、僕が担当の時、たまたま教室の先輩が入院していたんです。
ああ・・・
最初は見学していたのですが、その先輩が来たら指導していた先生が
ああー!いいのがきた!お前は!って言って、はは。
それは・・・練習台ですね
向こうはすごい嫌がる嫌がる。
でもやっぱり、やめてくれとは言えないですよね。
後輩の教育ですから。結局、ちゃんとできたわけですが、
その時のことは、先輩にだいぶ言われました。はは。
その時は、採血は曜日担当でしていたのですが、
僕はじゃんけんで負けて1番患者さんが多い月曜担当になりました。
そうすると、毎週20人ぐらい採血しなければならず、
それを1年間続けて、あっという間にできるようになりました。
それで、百戦錬磨になったわけですね。
そうなんですよ。
だから医者らしいすごいエピソードはあまりなくて。

大学生時代の橋本副院長
コロナウイルス流行は大きな出来事でしたよね。
橋本副院長:
そうですね。コロナの前(2009年)に新型インフルエンザが流行って、
その時僕は検査の部長ではなかったのですが、
いろいろ大変だなと思っていました。
15年ぐらい前でしたかね。
その時に検査の部長を引き継ぐことになって、
あの時は新型インフルエンザが来たらどうしようかと思いました。
実際来たのですが、あの時は大変でしたね。
新型インフルエンザは半年ぐらいで終わったんです。
でもやはり、倉敷中央病院は底力があって
そういうことになると病院が団結するので、
いろんな人に助けてもらいましたね。
絶対一人じゃ抱えられないですから。
困ったときにその状況を見ていて、いろいろな人に関わってもらって、
巻き込んで、それなりに大変でした。
コロナ流行時の院長先生は山形先生でした。
山形先生が旗を振って出ていかれたので、何とかなりました。
最終的には倉敷の他の病院さんも患者さんを
結構受け入れしてくださりました。
倉敷の病院長会議とか何度か開催しましたね。
あれびっくりしましたよ。すごかったですよね。
そんなことがちゃんとできるんだと思いました。
COVID-19倉敷圏域病院長会議
倉敷圏域の医療機関に呼びかけて開催していた。現状と課題を共有し、今後の診療体制に関する協議を行うとともに、病床設置などについて協力を要請した。
やると決めて2週間後には始まっているんです。
他の地域でそんな話は聞かないのでやっぱり倉敷はすごいですね。
あの時に地域連携というか、医療機関ごとの役割分担がはっきりして、
医療がぐんと進みました。やろうと思えばできることが分かりました。
院内でもやろうと思ったことが次の日にはできています。
皆さんの協力のおかげではあるんですが、
向く方向が決まったら動けるのだと感じました。
非常時にちゃんと動けるのは倉敷中央病院の良いところですね。
昔は大学病院にいましたが、
現場で決定できることが決まっており難しかったです。
そんなところにいて、倉敷中央病院に来たため、
風土も違うし、民間の病院はすごいと思いました。
よく言われますよね。
倉敷は幕府直轄天領地だったから他とは雰囲気が違うと。
もともと民間の力が強い風土っていうのがありますよね。
橋本副院長:
そう思います。スピードも速いし変化に強い。

地域の皆さんに伝えたい事
橋本先生が担当されている感染対策や医療安全の分野では、
当院だけでなく地域の医療機関への支援もされています。
その活動や、地域の医療機関との連携についてもお話しいただけますか。
橋本副院長:
倉中でこのまま診てほしいとよく言われますが、
かかりつけに行った方が実は、
医者と患者さんの関係が近くなっていいこともあるのではないかと思います。
例えばリハビリはうちでもやっていますが、
わざわざ倉中に来なくても近くでリハビリした方が
患者さんのためになるのではないかとか。
そうですね。
患者さんの病状にあった医療機関選びっていうのが大切ですよね。
橋本副院長:
そうなんですよ。
別に、一方的にここが良くてここが手薄とかではないですよ。
それをなかなか理解してもらうのは難しいですが・・・
あと、うちが地域に対して
していることは患者さんのためだけに
していることのみではありません。
感染対策では、実際に地域の医療機関に出向いて指導したり、
オンライン会議で勉強会を行ったり、
医療安全に関しては、月に1回勉強会を開催したり、
地域の病院を巡視したりして、
地域に貢献できることを実施しています。
結局地域の医療レベルを上げないと、
患者さんも地域に帰ってもらえないし、我々も安心して送り出せません。
だから、患者さんのためでもあるし、
病院のためでもあるし、地域のためでもある。そういう活動をしています。
地域の底上げつまり、地域医療エコシステムということですね。
橋本副院長:
そうです。共存ですね。
先生、医療安全の活動を続けてこられてどうですか。
他の病院さんの活動について変化が見えてきたものはありますか。
橋本副院長:
明らかに最初の頃よりは成長して、できるようになってきています。
うちもそうですけどね。やりながら変わってきています。
世の中の変化についていっていると思います。
やっぱり、情報共有は大事です。
うちが得た知見を他の所に共有したりとか。
こういうことをしたらうまくいくよとか、簡単にできるよとか
ノウハウを提供をするとか。
よその病院さんから学びを得ることはありますか。
橋本副院長:
やっぱり、クリニックなんかはフットワークが軽いですね。
全体に浸透するのが早いです。
倉中は大きい組織だから大変ですが見習わなくてはいけません。
見える幅が広がると、疾患の受け入れの幅も広がり、
病院間の医療の差が埋まると患者さんが行ったり来たりもしやすくなります。
そうすると患者さんも安心して適切な医療機関に移ることが出来ます。
今回はここまで。
次回は橋本副院長のプライベートをお話しいただきます!
皆さんお楽しみに!
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