ご家族の方へ-いきいきライフ


●このたびは、受賞おめでとうございます。執筆の背景をお聞かせいただけますか?
シベリア抑留の極限状態では人に言えない恥ずかしいこともしています。それも書かなければ本当の抑留記ではないと思い、書きませんでした。数々の抑留記が出ているけれど、自分に都合の良いことしか書いていないと感じています。あるとき家内に「あなたが抑留記を書かないのはわかる。しかしあなたの抑留話には面白いものがたくさんあるじゃないですか。それを書いてはどうか」と言われたことがきっかけで書き始めました。福山製鉄所を退職してから同社の寮の支配人として草津へ赴任した折、現地のマッサージ師の組合とかかわることになりました。家内は福山時代の10年間に学んだ点訳や朗読のボランティアをしておりましたが、私はそういったことはできませんので、外出の際の介助などのボランティアをしておりました。私はその方々のために体験記を書き、家内がそれを朗読・録音してその方々にお聴かせしていました。体験記の点字版は、出身校である金光教図書館に寄付しております。


平成26年10月に開催されたケアセンターの作品展にも
山陽新聞の記事とともにご自身の書籍を展示されました。

発刊のきっかけは、金光学園の同窓会でした。最年長OBとして話して欲しいと依頼されたことがきっかけです。極限状態の話をしたのですが、そこに後輩が食いつき、本にしようということになりました。この本は不特定多数の人に見せるのではなくて。金光学園の同窓生による手作りで第1版を200部作りましたが、これが1年ほどでなくなりました。その後、玉島活版の社長が同期なのですが、彼が装丁のしっかりしたものを作ってくれました。このとき、彼は第17回日本自費出版文化賞へこっそり応募していて、通ったといきなり連絡がありました。第1版を発行したあとの感想はいろいろいただいています(今回受賞したのは、装丁を整えて再販した第2版)。金光学園の校長からいただいた手紙では「素晴らしい精神力だ」と書いてくださっていますが、私からするとそんなたいそうなものではないと思います。

●ロシア語をお話しされていたのですか?

出版された著書

なぜロシア語を…と思うかもしれません。あなた方は知らないかも知れないけれど、ノモンハン事件という国境紛争があったのですが、当時ロシア語を知っている人間はいなくて困ったのです。一般人がロシア語を話すのは赤だといわれた時代で、話すとすれば当時の外国語学校くらいでした。ですので、ロシア語教育隊が軍に設けられたのです。これに入学するためには、英語のほかにもう1ヶ国語できなければなりませんでした。当時、これができるのは高等学校・大学出身者のみで、私は製鉄会社に勤務した折、中国人を指導するために中国語、当時は満語といいましたが、習う機会がありました。当時の大学出身者といえば今と違い超エリートですから、戦友には著名人がいっぱいいます。菊正宗の社長とか、加藤登紀子さんの父君とか…。彼はハルビン学院を出ていて、歌が上手で、奥さまもバイオリンを弾かれていました。その血筋でしょうか、加藤登紀子さんのロシア語は正確です。

●中立的な視点が興味深い書籍です
足を踏んだ方は忘れても踏まれたほうは覚えている…というのがありますが、それでは友好関係は築けません。草津にいたときも、ハバロフスクのコメディミュージカル劇場の人達をホテルに呼んでミニコンサートを開いたりしました。「11年も抑留されて、よく付き合うね」と言われましたけれども、私は反ロではありませんから、今も付き合っています。

江戸の川柳、あなた方はわからないでしょう?「宝船 焙烙(ほうろく)のいる 神もあり」焙烙ってわかりますか?備前焼、当時は伊部焼きといいましたが、豆やゴマを煎るもので、七福神のうち弁天さまは女性だから、お手洗いをどこでもするわけにはいかないから、トイレ代わりに必要だろうというわけです。そんなの、わかりませんよね。ロシア語も同じで、いろんな昔話や小話を知らないため、みんながどっと笑うときに分からず、劣等感を抱きました。抑留記には、聞いたつもり、言ったつもりが多すぎると思います。片言のロシア語でそんな難しいことを聴き取ったり、しゃべったりできるわけがありません。この体験記には、私のロシア語でわかったことしか書いていません。

「11年つらかったでしょう」と言われますが、辛かったことは話したくありません。また、私たち長期抑留者が楽をしたという声もありますが、私たちは持ちえた技術で仕事をし、少しでも良い待遇を得て、来るべき帰還に備えようと努力しました。日本鋼管の社長、金尾さんは秘書に「俺は3年半で大変だったけど、永田さんは11年だ。あれは大変だよ」と話されたそうですが、当初の3年半が11年続いていたら生きてはいられませんよ。自助努力で、それでもハンガーストライキをやったりしているわけですから、楽をしていたわけではないのですけれどもね。ロシア人は不器用で、文盲の方がたくさんいました。優秀な人材はエリート教育をしますが、ピラミッドの底辺と頂点がある状態です。算盤だってできなくて、暗算もできません。ですから、商業学校を出た日本人は、ノルマ計算で能力を発揮するわけです。ノルマはせいぜい三桁の計算ですから、暗算でちょこちょこっとできるわけです。その一方でロシアは、エリートの兵役を免除しました。日本は優秀な技術者もすべて赤紙1枚で動員しました。そういう点では、国力維持という点でかしこかったと思います。

●ご本とは離れますが、ケアハウスつるがたの日々についてお聞かせください

永田さま実は、家内の母を95・96歳になるまで、4~5年面倒をみました。明治生まれの方ですから、私には遠慮されるわけです。なので、世話は家内、私は3食、食事を担当しました。その後、義母が亡くなり、家内が1か月先にこちらへ入居しました。旦那さんはどうするんだと言われたら「あれは自立しているから」と言っていたそうで。家内が入居まで半年待ったので私もそうかと思っていたら、1か月ほどで入居できました。家内は5階、私は3階に住んでいます。皆さん一緒に食事されていますが、私たちはそれぞれ自由な時間を過ごしています。一緒にいたら「飲みすぎ」と言われて好きなお酒も飲めませんよ(笑)。今日は血液検査があるんですが、365日休肝日無しで毎日2合ほど飲んでいても、不思議と肝臓の数値が悪くならないんです。以前住んでいた草津は、標高1,200メートルほどですから、冬の気温は札幌並みです。雪が10cm以上降るとメイン通りの除雪が行われますが、それ以下だとしてくれない、それが凍っちゃって、滑ってね…家も建てて草津へ居つくつもりでいたけど「80過ぎて、滑って転んで骨折でもしたら…」と2人で考えて、私の生まれ故郷の玉島へ帰ってきたんです。玉島で3年ほど過ごしている間にこちらを見つけて入居しました。入る当時は70kgぐらいあったのが、3kg痩せました。ちゃんとカロリー計算して、塩分計算したものを食べさせてくれる。自分が料理していたら嫌いなものを食べないでしょ?私にとってはここの食生活は快適です。軍隊のこと、シベリアのことを思って御覧なさい。3週間に1度くらい同じメニューが出てくることがあっても、ここはそういう場所ですから。まずいなんていったらバチが当たります。風呂上りにお酒をたしなんで、8時に寝て、4時に起きます。日中は図書館に行って本を借りてきて読んだりしています。テレビは、スポーツなど勝ち負けがあるものは見ないことにしています。勝った負けたの最たるものは戦争ですから。

●毎週火曜日に手銭先生が健康チェックにこられますが、利用されていますか?
もちろん利用しています。血の巡りをよくするお薬と、右へ右へと進んでしまうのを改善するお薬、血圧のお薬を処方していただいています。ここで、半年に1回血液検査を受けられるのですが、やはり安心です。今の所、内臓はなんともないですね。階段の上り下りは手すりが無いと駄目ですが、荷物を持っているときと階段のお掃除をされているとき以外は、階段を利用しています。平地を歩くのと階段を昇るのは違うでしょう?付加が4倍だそうです。階段の上がり降りは、結構運動になるんです。

●健康の秘訣ですね、大浴場はいかがですか?
それが、入居者80名のうち男性が16~17名しかいないわけですよ。私は毎日夕食後すぐ入っていますが、広い風呂を独り占めです。年をとってからの1人風呂は本当は危ないのです、何かあったときを考えるとね。でも、快適だからね(笑)。毎日、独り占め。だから、女性の方から「男湯は泳げるね」と羨ましがられます。

●お風呂で何かあったときにはサポート体制が整っていますよね?
もちろん、お風呂にもトイレにも、さまざまなところに緊急時のスイッチが設置されています。いざというときの安心感はありますね。

●ご趣味活動は?
抑留時代にはさくら楽劇団で音楽や演劇をやっていて、線路の枕木でコントラバスを作って演奏もしました。今は倉敷の歌声喫茶に行っています。大きな声でロシア語で歌が歌えるのはあそこだけでね。毎月第1土曜日の夜7時~9時、開かれています。歌集があって、そのなかにロシアの歌があって、私が歌えるのは7~8つありまして、それをやれといわれて歌っています。そうしたら、玉島の勇崎というところに「あすなろ園」という特養ホームがあるのですが、そこから声がかかり、10月の誕生会で歌うことになり、3曲ロシア語の歌を歌ってきました。福山製鉄所時代のOB会もあり、そちらでも歌うことになっています。

歌声喫茶には30名くらい集まりますが、男性は2~3名です。昭和31年12月26日に帰国しましたので、戦後のフォークソングはまったくわかりません。年取ってから覚える気がないですしね。だから、行ってもほとんど、聞いているだけですね。よほど、小学校時代の歌などであれば歌いますが。8時からはリクエストタイムで、そこで「何ページのコレコレを」とリクエストされて歌うわけです。

あなたは何かロシア語の歌を知っていますか?トロイカは3頭立ての馬車です。歌から詩から無数にあるわけです。「走れトロイカほがらかに」のあの歌は、もともと日本で言う金色夜叉、許婚を金持ちに取られた御者の悲哀を歌ったもので、別のトロイカの歌詞を持ってきたものです。実はおめでたい席で歌う歌ではないのです、覚えておいてください(笑)乗客が、憂鬱な顔をしている御者に尋ねたら「実は金持ちが許婚を取った」と語ったというものです。カチューシャというのはロシアの「エカテリーナ」という名の愛称です。日本のように「きよしだから、きよちゃん」というものではないんです。ロシアでは「この名前と、この名前と、この名前はカチューシャと呼ぶ」と決まっているのです。こういう話をさせれば、11年分ありますから、キリがありません(笑)

●貴重なお話の数々をありがとうございました。

永田氏のお話は、当時交流があった人々を大切にする視点で語られ、新鮮な印象を受けました。第17回日本自費出版文化賞は応募総数610点から大賞1点、部門賞6点、特別賞5点が選出され、永田さんの著書「シベリア抑留こぼれ話」は特別賞を受賞しました。

審査員の書評には「自分が経験した長期間のシベリヤ抑留体験を発表したエッセーを学校の後輩や関係者がまとめたもの。悲惨であった抑留体験であるが、全体の基調は明るい。一方的でない見方が可能になる作品。」とあります。あったことを、ありのままにという実直なお人柄が感じられるインタビューでした。



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